第一回: 佐世保の事件から学ぶもの
話し手:尾木直樹氏
経歴:
東京都内の中高教諭、東京大教育学部講師などを経て、
1994年4月から臨床教育研究所「虹」所長。
教育臨床学が専門。
現在, 法政大学教授。
「子どもの危機をどう見るか」(岩波新書)、
「子どもの目線」(弘文堂)など著書多数。
今回の佐世保での小学生の事件について、「心の教育」「インターネットやチャット」「前思春期と子どもの発達の関わり」という視点から尾木直樹先生にお聞きしてきました。
「心の教育」「命の大切さ」をいかに伝えるか
佐世保の少女も「命の大切さ」をよく分かっている少女でした。二月の日記には環境汚染の問題をあげ、全ての動物や植物には命があり、それを大切にしなければならないと書いています。徳目としての命の大切は理解していたとしても、自分の感情として、命を大事にするという沸々と湧いてくる感性の教育は成し遂げられていない。他人を思いやるという根底には、自分が、周囲の仲間、先生、家族や社会から思いやられているという体験があってはじめて、他人を思いやる子どもや命を大切にする子どもが育つのです。今の子どもたちは自分のことを愛せない状況にあります。「自己肯定信条」(self esteem)が低ければ他人のことを愛することはできないのです。
前思春期:心の発達ともう一人の自分の登場
事件の翌日「普通の生活をしたい」、「メールや手紙ではなくて、直接会って聡美ちゃんにお詫びをしたい」という加害少女の言動が報道されました。ここに思春期に誰もがもつ人格乖離的な現象がみられます。女の子は小学校5年生前後から思春期に入り、第二の自分というものを自分の中に意識し始める。身体的な変化が引き金になり、内面的な自分というものを見つめることになります。まさに加害少女は、思春期の第二の自分が登場していました。彼女は、かわいくて、男の子にも人気があり、成績もクラスで五番以下にはなったことがない聡明で、自分の主張はあまりはっきり出さないような子だったそうです。しかし、その子のつくったホームページをみると、アバター(分身)が普通の少女からカボチャに変身している。言葉遣いも「ウゼー」とか「愚民」とか「エロい」等が使われ、普段の彼女の生活を知る人には全く想像が出来ないものです。しかし、それが思春期の第二の自分の姿なのです。
彼女たちはのたうち回るように苦しんでいて、告白日記を書いたり、あるいは交換ノートをするというのはそういう自分を許す場所・相対化の作業でもあります。ノートの中でいろいろ告白するのですが、そうしているうちに自分というものに気づいていく。信頼できる友人あるいは自分自身との間の秘密に行われる作業が、ホームページを持つことによって、陰の自分が主役になってしまう。そのことが前思春期のこどもたちの発達をゆがめてしまう。
インターネット:大人がいかに子どもに関わるか
インターネットやchatについて、先生や親の目の行き届かないところで、子どもたちだけにさせるのはとんでもないことだと思います。大人がしっかりと子どもを守るガイドラインをもつべきです。校長・教頭へのアンケート調査では、この事件を通して初めて子どもがこんなにチャットをしていると知った校長・教頭が全国の半分もいた。教員に対してのアンケートでは、掲示板への書き込み経験のあるものは12〜3%、チャットをしたことのあるものは数%だった。問題は、先生が子どもの生活の実態をつかめていないことにあります。子どもたちの携帯やインターネットなどのメディアの使用実態がわかっていない。さらに先生方に対して「どういうことを教育委員会・文科省にもとめるか」というアンケートでは、1番が「命と心の教育のやり方についての研修」、2番目が「子ども理解のカウンセリング研修」だった。子どもが理解できないのなら、もっと目の前の子どもの世界に飛び込めばいいのに、対応の研修に目が向いて、先生方は子どもたちと離れたところで頑張ろうとしている。わからなければ、子どもに聞けばいい。「わからないことは子どもに聞く」が教育の原点です。今回の事件は、対処療法的な対応は無意味で、教育の原点に立ち戻れと言うことを示唆しているといえるのではないでしょうか。
(6月28日:談 尾木直樹先生、編 炭谷晃男) |